見沼の開発と見沼代用水、通船堀の歴史

 

■見沼の新田開発

1629年(寛永6年)関東郡代伊奈半十郎忠治が、現在の埼玉県浦和市と川口市の境に八丁堤を築いて水をせき止め見沼を溜井としました。これは下流の村々の水源として使われました。
1716年〜1736年(享保年間)に新田開発奨励策のもとで溜井干拓による新田開発が行われました。八丁堤にある芝川が掘削され、排水し溜井の干拓が行われ、新田が開かれました。


現在の八丁堤(県道浦和鳩ヶ谷線)
■見沼代用水の開削

この新田の目的として代用水路の開削が計画され、幕府の役人、井沢弥惣兵衛為永に施工が命ぜられました。為永は溜井を検分、測量に着手、1728年から1729年の5か月間で、延長84キロに及ぶ大工事を完成させました。取水口には巨大な木造樋管を設け、途中、星川を利用して用水を導き、他の河川と交差する所では伏せ越しを設けるなど、さまざまな技術が駆使されました。このあと為永は八丁堤の北で東・西縁用水と芝川を結ぶ通船堀を開き、舟運の便を図りました。見沼の代わりの用水という意味で「見沼代用水」と呼ばれています。

現在の芝川
■芝川と見沼通船堀

見沼代用水から引いた水は新田で使用され、芝川に排水されます。このように用水と排水を分離する方式を紀州流と呼んでいます。
見沼の干拓、新田の造成、それに東西の代用水が完成し、次に、代用水路縁辺の村々と江戸を結ぶことを考え代用水路と芝川とを結ぶ運河を作ることにしました。東西の代用水路と芝川がもっとも近い八丁堤付近を開削し、見沼通船堀をつくりました。

現在の見沼通船堀東縁
■閘門式運河について

運河を構造的に分類すると水平運河と有門運河とに分けられます。
水平運河は水路の高低差のほとんどない運河をいいます。この運河を造るときは平らな地形なっているか、開削の難しい山地が途中にないことが必要です。
有門運河とは、水位の違う海と海、川と川とを結ぶ運河であり、運河の途中に中間的な落差をつくり、この落差を船が上下できるよう閘門(関)が設けられています。有門運河とする理由は、高い水面と低い水面とをそのまま連絡できないことと、水路の水深が不足して船舶が通過できない場合です。この種の運河としてはパナマ運河が有名で、パナマ運河ではこの方式によって湖面の標高25.9メートルのガトゥン湖まで船を移動させています。
通船堀は規模は小さいのですが、パナマ運河より早く作られています。

資料 小学館「スーパーニッポニカ」


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