二十三夜塔

この二十三夜塔の由来
今からおよそ600年前、室町時代初期、当時この地は伊勢の神領地でした。武蔵野は安住の郷域でしたが、源氏の将扇谷上杉定正1族の勢力争いに端を発し、小田原の北条氏秦らが加わりここに果てしない戦渦が広がり、住民の多くはその被害はかりしれず、やがて農兵の徴発となり人々の恐怖の果てにおかれたのであります。

この頃当地方に起こったのが月待信仰(さんやまち)であり、後に「二十三夜まち」講として行事化されたと伝えられます。

即ち戦乱常なくその家族の生死すらわからぬ住民はこの信仰によって安心立名、無事息災を勢至菩薩は「月天子」をして観音経を唱え祈願したもので、当時ここに住民の祈念堂があり、今から約150年前(天保3年)老朽により廃堂となり本石塔を建立したと伝えられます。                        石塔そばの掲示板より

月待について
十三夜、十五夜、十七夜、十九夜、二十三夜、二十六夜など特定の月齢の夜、人々が集まって月の出るのを待って供物を供え、飲食を共にすることをいいます。毎月祀(まつ)る例は少なく、正月、5月、9月の3回、あるいは正月、11月の一定の月を祀る所が多くあります。月待は、組とか小字(こあざ)を単位とすることが多く、年齢によるもの、性別によるもの、あるいは特定の職業者だけの信仰者によるものなど、さまざまであります。講の組織になっていることが多くあります。講については「木曽呂の富士塚」を参照してください。

月待には安産祈願、病気平癒祈願など人にかかわるものが多くあります。

資料 小学館スーパーニッポニカ ・ 広辞苑


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