木曽呂の富士塚

国指定有形民俗文化財
          
    木曽呂の富士塚 
                               昭和57年5月24日指定
木曽呂の富士塚は、地元で、ふじやま、または木曽呂浅間と呼ばれ、1800年(寛政12年)に、富士講の一派である丸参講の信者の発願によって見沼代用水と通船堀の連結点の縁に築造されたものです。高さ5.4m、直径約20m、塚全体が盛土で築かれています。頂上には、お鉢めぐりができるよう火口が掘ってあり、また今日では入口が埋没していますが塚を貫いて胎内くぐりの穴を設けてありました。
富士塚の麓には1805年(文化2年)建立の蓮行知道居士の碑があり富士塚築造の由緒が刻まれています。
富士塚の中でも古い築造で、特に埼玉県下のものではもっとも古く、庶民信仰の様相を示すもので、貴重です。

冨士講とは
富士山を霊峰として信仰の対象とし、中世には修験道を中心に、関東・東海地方に富士信仰が形成されていきました。近世初期に長谷川角行(はせがわかくぎよう)が教義を整え、その布教のために信徒組織をつくりました。その後、食行身禄(じきぎょうみろく)が講社の発展を図り、江戸を中心に町人や農民に広く呼びかけました。先達が霊験を説いて信徒を集め、先達に引率されて富士山に登拝するです。講中の者は登拝に先だって3日または7日の精進潔斎ののち、白衣を着て鈴と金剛杖を持ち、「六根清浄(ろっこんしょうじよう)お山は晴天」などと唱えながら、行者として修行のために富士山に集団で登拝しました。
実際に登山できない人のためには、村内に富士塚などのを設けました。関東にはいまも、富士山をかたどった富士塚や、登拝記念の石塔が数多くあり、地名に残ったものが多くあります。

お鉢めぐりの火口 富士塚頂上から南の方面を臨む。

様々な民間信仰と講組織について New

資料 川口市史・小学館「スーパーニッポニカ」・弘文堂「日本民俗事典」


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